開基より四十二代に渡り教えは受け継がれてきた


開創の1469年(文明元年)より、現董の小野茂明まで550年の間、42世に渡り普賢寺の教えは受け継がれてきました。これからもその教えは連綿と世代を超えて続いていきます。

歴代の住職について

法 名 詳 細
第1世 良圓 文明元年(1469)良圓僧正が開基。(天台宗大観に記載)
第2世 文宣 文明12年(1480)
第3世 源祐 永正17年(1520)10月13日示寂。
第4世 良秀 白業会過去帳による。
第5世 良恵 寛永3年(1626)正月7日示寂。
白業会過去帳による。
第6世 良賢 寛永4年(1627)9月7日示寂。
白業会過去帳による。
第7世 了圓 寛永14年(1637)2月22日示寂。
白業会過去帳による。
第8世 善正 寛文6年(1666)2月3日示寂。
白業会過去帳による。
第9世 亮圓 寛文11年(1671)正月12日示寂。
白業会過去帳による。
第10世 永賢 天和3年(1683)8月23日示寂。
白業会過去帳による。
第11世 圓賢 貞享3年(1686)9月7日示寂。
白業会過去帳による。
第12世 忠慶 元禄15年(1702)4月6日示寂。
白業会過去帳による。
第13世 正淳 享保12年(1727)7月12日示寂。
白業会過去帳による。
第17世 義寛 浅草寺日記には寛延2年(1749)2月13日普賢寺死去実名義寛とあるが、白業会過去帳には寛延2年(1749)2月6日示寂となっている。9年間在住した。

第18世 義天 泰全房40歳、法臈29年。義寛の弟子、浅草寺一山金剛院よりの推挙による。白業会過去帳では寛延3年(1750)2月15日示寂となっている。
実名不詳 寛延3年(1750)3月18日島田内蔵なる人物の申請によって上州前橋極楽寺より転住。
安永3年(1774)10月7日隠居。25年間住職を勤めたとある。19世か。
実名不詳 「運善房」安永3年(1774)10月頃に就任している。20世か。
第21世 聞恵 天明3年(1783)7月27日示寂。
第22世 廣歓 天明3年(1783)9月22日示寂。
覚田 「理観房」覚田36歳、法臈27年。岩槻慈恩寺在勤。
天明3年(1783)10月就任。
具徳 寛政5年(1793)頃に在住。寛政5(1793)3月に浅草寺で厳修された一山総出仕による曼供法要の差定に、普賢寺権大僧都具徳の名が残されている。
官祥 寛政7年(1795)就任。寛政9年(1797)10月24日示寂。
実名不詳 寛政5年(1793)南蔵院の推薦で徳正寺住職に就任後、寛政9年9月27日徳正寺より転住。
了因 文化元年(1804)11月23日浅草寺の論議に出仕。
文化9年(1812)1月29日、松林寺兼務住職。
文化12年(1815)2月3日進退願いが受理され退任。
第25世 文宣 文政10年(1827)5月6日示寂。白業会過去帳による。
文諦 文宣の弟子。文化12年(1815)2月住職就任。
文政9年隠居。
文政9年(1826)2月21日、弟子台教房諦順が住職の留守中盗賊に遭遇し金子3両を奪われた事件が浅草寺日記に記録されている。台教房諦順27歳、法臈8年、その後松林寺住職に就任した。諦順は松平越前守家来、渡辺利右衛門の子。
文政2年(1819)7月普賢寺にて得度。師許に3年随身、越前府中引接寺に4年随身後、文政6年(1823)8月帰寺。
文栄 智教房文栄20歳、法臈10年。
信州信太郎古渡村名主八右衛門の倅。
文化11年(1814)普賢寺にて得度、師許に3年随身、文政元年(1818)常州行方西蓮寺に3年随身、文政4年(1821)より牛込築土無量寺(廃寺)に随身。
光明寺の法類。
文政9年(1826)10月病気のため辞任。
文隆 了観房文隆27歳、法臈9年。
三宅備前守殿内、渡辺市郎兵衛の次男。
先の隠居文諦の弟子。
文政元年(1818)2月文諦戒師により得度。
師許に3年随身後、常州行方西蓮寺に4年随身。
7年(1824)12月帰寺。
光明寺の法類。
文政9年(1826)住職就任。文政10年(1827)4月辞任。
文諦 先の隠居。病気全快により再住職。41歳、法臈31年。
柳島村百姓藤八倅。
寛政9年(1797)2月文宣戒師の許得度(寺伝は文宣を文明12年(1480)としているが別人か)師許に13年、上野学寮十老智泉房に7年随身。
文化12年(1815)2月普賢寺住職。文政9年隠居、その後も普賢寺に同居していた。
光明寺の法類。
文諦は数多くの弟子を育て、近隣の寺院に入山させている。自身も松林寺住職を経て押上円通寺の住職を勤め、弘化4年(1847)円通寺にて遷化している。
文政13年(1830)9月には弟子、静明房諦典25歳、法臈13年。
奥州白川領分物太村百姓平助の子を妙教院に随身させ、上野寒松院に勤めさせた後、浅草寺一山寿命院住職に就任させた。
天保7年(1836)普賢寺隠居の文諦に松林寺留守居が仰せつけられる。
文祐 天保3年(1832)11月就任。天保9年(1838)3月26日隠居。後住不在のため法類円通寺、組合最勝寺預けとなる。
文渕 天保10年(1839)就任。浅草寺日記の記録によれば天保9年6月、後任住職として先の隠居文諦(円通寺住職)の弟子、越中国上婦負部石戸村武部孫左衛門次弟の唯乗房文慶38歳、法臈18年が檀家総代、法類総代、組合総代連署で推薦される。文慶は文政4年(1821)得度武州金讃寺に3年、最勝寺に4年随身した人物であるが何故か許可が出ない。
翌天保10年(1839)4月今度は同じ文諦の弟子、松平肥前守家中陣内相兵衛の子「了因房」文渕28歳、法臈18年が同じ関係者によって申請されると今度は簡単に許可が下りた。その理由は定かではない。文渕は文政5年(1822)に得度、天保6年(1835)まで武州川越の仙波学寮に勤め、同年より上野一乗院に在勤している。
第33世 慈順 萬延元年(1860)
第37世 常映 至徳院権大僧都常映大和尚 青木常映。
明治42年(1909)10月5日示寂。
白業会過去帳には三十八世とある。
第39世 常昌 中興自覚心院権大僧正常昌大和尚 小野常昌。
大正6年(1917)10月29日示寂。
第40世 常明 照誠光院僧正常明大和尚 小野常明。
昭和36年(1961)10月20日示寂。
第41世 常正 普照光院僧正常正大和尚 小野常正。
平成11年(1999)1月16日示寂。
第42世 茂明 小野茂明。現董。