普賢寺について
普賢寺が一番大切にすることは「参詣者の心が豊かになること」です。
普賢寺には立派な伽藍も、広い境内も、文化財となる宝物も御座いません。
ただ、普賢寺に入れば、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)が清まる場所になるべく精進しております。
めまぐるしい今の世の中で、一時的に満足したり、幸福感を味わうことはあれども
心が豊かになる時と場所は減ってきているように感じます。
苔や紅葉の鮮やかさに時間を忘れたり…
お香の香りで記憶の窓を開けたり…
お堂に入って心を調えたり…
境内に入れば、感性の蓋が開き始めるような寺。
心にある大切な種が芽吹いていく寺。
そして、皆様にとって安心なる居場所としての寺。
そんな寺を目指しております。
概要
宗派
天台宗
総本山
比叡山延暦寺
祖師
高祖:天台大師 智顗禅師(ちぎぜんじ)
宗祖:伝教大師 最澄上人
寺院名
髙龍山明王院 普賢寺
(こうりゅうざん みょうおういん
ふげんじ)
ご本尊
不動明王
開創
1469年(文明元年) 良圓僧正
経典
根本経典:法華経
法華経の諸法実相
(すべてのものは真実のすがたである)の立場に依って、あらゆる経典を敬い読誦いたします。
周辺環境
普賢寺は、大正12年に公園墓地として開設された都営多磨霊園(128万平米)の東側に隣接しています。多磨霊園には新渡戸稲造、山本五十六、岡本太郎、三島由紀夫など多くの偉人が眠っており多くの方が散歩やお参りに行き交う地となっております。近辺には野川公園、武蔵野公園、武蔵野の森公園、アメリカンスクール、東京外国語大学、ICU、深大寺などがあり閑静で緑豊かな地として四季折々の自然を身近に感じることが出来る恵まれた環境にあります。
普賢寺の歴史
古文書『江戸記聞』によれば、普賢寺は文明元年(1469)江戸本所隅田川、厩橋の川岸に良圓僧正によって開創されました。当時は浅草寺に属し、本所中之郷第六天の別当寺であり、境内には歌舞伎傳助所持の地蔵尊や渋沢栄一氏らが師事した儒学者 海保漁村 の碑等がありました。
寺は安政の大地震(1855)により崩壊してしまいましたが、数年後に再建されました。しかし、大正12年(1923)の関東大震災で再度火災により焼失しました。想像を絶する猛火のため、ご本尊、過去帳の一部を持ち出し、当時の寺族は川に飛び込むのが精一杯という状況であり、寺歴等もその時に焼失してしまい、詳細は定かではありません。
大正13年(1924)、第40世 常明の代に都市計画の打診を受けて、北多摩郡多磨村(現在地)に移り、草庵を結び今日に至っております。
昭和35年には、念願の本堂を再建しました。その後、平成元年 第41世常正代に雨漏りがひどくなった本堂屋根瓦を銅板葺きに改修、平成2年に参道及び塀の改修、平成7年に築後70年を経て老朽化甚だしかった庫裡も、檀信徒皆様のご協力によりまして、客殿庫裡として落慶いたしました。
現在、本所時代のものとして現存するのは、類焼を免れた本尊、過去帳、境内に改葬された海保漁村(幕末の儒学者)のお墓がございます。
1469年
良圓僧正によって開創 (現在の墨田区本所)
浅草寺の末寺として興隆
1855年
安政の大地震によって焼失、崩壊
1923年
関東大震災によって焼失
1924年
都市計画で現在地(府中)に移動
1960年
本堂落慶
1995年
客殿・庫裏落慶
不動明王とは
不動明王は「お不動さん」と親しまれる、日本で多くの信仰を集める仏様です。
魔や外道などから私たちを護るため、大日如来が姿を変えて現われたのが不動明王で、外には憤怒を表し、内には慈悲を表す仏様です。蓮華(れんげ)を載せた弁髪(べんぱつ)を左肩に垂らし恐ろしい目つきで睨んでいる左目は半眼、口は牙が光り、額にはしわが波打つお顔をしております。
右手に持っている剣を利剣といい、正しい仏教の智慧で迷いや邪悪な煩悩を断ち切ります。左手の綱は羂索(けんさく)と言って、悪い心を縛り善心をおこさせることを現します。背中の炎は迦楼羅焔(カルラえん)といいます。カルラは毒をもつ動物を食べるという伝説上の鳥の名前です。この鳥の姿をした炎ということで、毒になるものを焼きつくすことを現します。このように、怖い顔をしている理由は、私たちの弱い心や迷いから目覚めさせるためのお不動様の慈悲心のあらわれでもあるのです。
是非ご参詣いただきまして、お不動さんを通してご自身を見つめ直す時間にしていただければ幸いです。また、お不動さんのご縁日である毎月28日に護摩祈願を奉修しております。
年間行事
日常行事
毎月28日
13時~、15時~ 不動護摩供
第4木曜日
10時~ 写経会 志納金 2000円
尼僧による指導 約1時間
毎週火曜日
10時~ 寺ヨガ&法話
毎月不定日
毎週日曜日
不定期行事
坐禅止観会
随時相談によって開催
1月1日
0時~
修正会不動大護摩供
1月28日
初不動護摩供
3月21日
(春分の日)
春季彼岸会大法要
*年によって変更
4月8日
14時~
灌仏会(花まつり)
7月7日
(13日直前の日曜)
大施餓鬼会法要
*年によって変更
8月1日
お盆棚経
9月23日
(秋分の日)
秋季彼岸会法要
12月21日
第3土曜日
千仏礼拝行
12月28日
納めの不動護摩供
天台宗の教え
天台宗の教えを表現するのに「円・密・禅・戒・念仏」という言葉があります。円教(法華経)、密教、禅、戒律、念仏などの修行法や教義すべてを優劣つけることなく尊ぶ教えです。すべてのいのちは「一乗」という一つの乗り物であって、誰もが安楽への道を歩むことができるという教えであります。
比叡山が後世「日本仏教の母山」と呼ばれるように、比叡山から多くの宗派の祖師方が輩出され天台宗の教えは日本仏教の礎ともなりました。普賢寺は、天台宗の教えや修行法に則って精進して参ります。
天台宗の教えや修行は下記よりご参考ください
海保漁村のお墓
「屈指の大儒」として知られた海保漁村
寛政10年(1798)、医師の子として生まれた海保漁村は、若くして学者となる決心をし、儒学者 太田錦城に師事します。27歳で独立したのちは「掃葉軒(そうようけん)」という名の塾を開き、庶民にも分け隔てなく学問を教えました。その中には、渋沢栄一(日本初の銀行創立者)や、政治家の鳩山和夫(鳩山由紀夫氏の祖父)が名を連ねています。慶応2年(1866)に69歳で亡くなるまで庶民教育に尽力した生涯は高く評価され、「屈指の大儒」(優れた学者の意)として今日に伝えられています。近代実業の発展に大きく貢献した渋沢栄一も、その思想や方法論に影響を受けたものと考えられます。逝去後は旧普賢寺境内(墨田区本所)の墓に葬られ、関東大震災後の大正13年に寺と共に現在の地に移りました。また、JR総武本線横芝駅から車で約10分の場所には生家跡の『海保漁村先生誕生之處』があります。
御戒名:養源院映月積山居士